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お知らせ 平成甲申玄月十九日


パソコンが機能不全に陥ったタメ、当分の間接続出来なくなってしまひました。
ズイブンと先のハナシになりますが、出来れば来年末か再来年くらゐに復活したいと考へてをります(飽くまでも予定ですが)。
今迄御覧下さってありがたうございました。


井原國彦拝  kemtarau@mail.goo.ne.jp 



凄い人がゐたものです  玄月六日

濃州南宮の神職に不破民部といふ人がありまし た。
学識もあり幽斎祈祷にも達して居たので世人の尊敬を受けて居た が、殊に江戸の旗本の某氏といふ大身の仁より格別の敬意を払はれ、或る年招かれて江戸に遊び、同家の離亭に数ヶ月滞在して居りました。

ところが或る日一人の若い女が平身低頭でやつて来て、

「私は当家に仕ふる女でありますが、不図したることより面目な きことながら姙娠いたしました。
これがわかると私も男も手打ちに致されます。
われら両人と腹の中の子供と三人の命を助けてください」

と申すので、民部は、

「助けたくも助ける方法がないではないか」

と申しますと、女は、

「あなたの子供と申して下されば御主人は必ず許して下されま す」

と云ふのです。

これには民部も大いに困りました。
が、遂に決心して其の女の願ひ通りにしてやることに致しまし た。

その為めに女ども三人の命は助かりましたが、民部は全く社会的 信用を奪はれ、江戸中の知人から冷やかな眼で送られながら静かな平和な心をもつて美濃の山中に帰栖しました。

友清歓真著『古道真髄』より



松下社の桃符 葉月廿六日



この注連飾り、画像からはよみとりにくいですが「蘇民将来子孫家」と書いてありまして、まァそのへんの由緒についてはこゝでは 述べませんが、なんとも霊験あらたかな注連飾りであります。
普通、注連飾りといへば正月が過ぎれば外してしまふものですが、この「桃符」については一年中玄関に飾って置いて良いのです。
といふか、正月だけで外してしまっては不可ないのです。
これを飾れば無病息災、悪鬼退散、窃盗強盗詐欺師退散、その他一切の殃(わざ)はひを寄せ付けないのであります。
(モチロン自業自得の場合は別ですよ)

年末にここで全国頒布してをりま す。
リンクにも貼って置きますので、もし欲しい方がいらっしゃったら12月くらゐに当該HPの連絡先に予約の申し込みをしてみて下さい。

因みに、どこぞのワケの判らない新宗教団体が配ってゐるものではなく、三重県二見町の松下社といふ神社の氏子総代の方が、好意で全国に配って下さってゐる ものなので、その点ご安心下さい。





モノの価値 葉月廿五日


或る人が、バブル華やかなりし頃に銀行から融資のハナシを持ち掛けられたました。
その人は都心部に30坪ホドの土地と、古い家屋を所有してゐたのです。
銀行員がいふにはその土地を担保にして一億円ホド融資出来ますが、どうでせう、といふことでした。

然し、その人は銀行員の言葉を聞いてかう思ひました。

「一億円?バカいへ、あんな狭い土地が何うして一億にもなるんだ」

結局そのハナシには乗りませんでした。
遠からずしてバブルが崩壊し、現在その地価は当時の評価額の半分くらゐになってゐるとのことですが、若し、その時、その土地を担保に一億も借りてゐたら大 変なことになってゐたことでありませう。

銀行員が口にした一億といふ価格は、その行員が勝手に云ったことではなく、当時の客観的な土地の評価額です。
しかし、その人は「そんなハズはない」と思った。

このハナシで留意すべきところは、なんらかの財物について誰れがどう評価しようとも、それに流されない絶対的な自己評価基準といふものを持つといふことの 重要性でありませう。

あるモノについて、他人が高く評価しようが、低く評価しようが、自分にとっての価値といふものは本来変はらないハズであります。
とくに市場価格といふモノホド頼りにならぬものはなく、それに依拠してどうのかうのしようと思ふと、やっぱり色々と目論見外れの事態が発生したりもするの でせう。

たとへば、小生の部屋に百円ショップで購入した羅馬風っぽいインチキ石膏(?)細工があります(下の画像。なぜ羅馬かといへば斧を持ってゐる人物がゐるか ら、恐らく)。
二流の名曲喫茶に飾ってありさうな雰囲気が気に入って購入したものです。
市場価格は百円。



しかし、それを百円で売って呉れといはれても、それは出来ないでせう。
また買ひにいくのがメンダウですから。

しかしまた、それを一万円で売って呉れといはれゝば、通常は売るでせう。
再購入する手間を考慮に入れてもトクでありますから。

更らに、しかし、それがモウ販売してゐないものであって、どうしても手放したくないといふのであれば、どんな値段を提示されても手放さないでせう(通常は そんなことはないでせうが)。
なぜならば、カネには替へられない価値をそれに見出してゐるから。

更らに更らに、しかし、「この人にあげたい」と思ふことがあれば、その人に対してタダで進呈することもあるでせう。
なぜなら、その人にもらって欲しいから。

以上のやうに、自分にとっての価値と、市場価値の開きのなんと大きいことでありませう。
世間にはそのモノの市場価値が高いか廉いかでしかモノを見られない人もゐるやうですが、さういふ人は常に「換金性」を考へてゐるからさうなるのでせう。
「換金性」を考へることが悪いとは申しませんが、さうすることは飽くマデも経済的手段であって、ほんたうにモノの価値を考へることゝはまた別であります。

また「換金性」ばかり追ひ求めてモノを扱ふと、モノに心を見透かされるのでせうか、往々にして目論見外れの結果に終はる場合が多いやうであります。

横浜ブリキのおもちゃ博物館々長の北原といふ人は、まだサラリーマンだった頃から古いおもちゃが好きで沢山集めてゐたとのことです。
別にそれを集めて売らう、売ってカネモチにならうなどとは考へなかったのでせう。

然し、好きで集めたおもちゃが時代の変化により商売にもなり、結果、旧華族の海沿ひの豪邸を購入出来るホドの財産を得ることになった訳でありますが、もし 北原氏が最初から商売するタメにおもちゃを集めてゐたのであれば、キット今のやうなことにはならなかったでせう。
そんな下心を以てすればモノに見透かされてゐたでせうから。

北原氏が財を得て自分の好きな道で喰へるやうになったのは、当初、誰れにも顧みられずにゴミ同然の扱ひを受けてゐた古いおもちゃ達が、北原氏から受けた愛 情に対して恩返しをしたことによるとも考へられませぬか。
北原氏のおもちゃに対する純粋な想ひ、損得を度外視した気持ちが、いゝ意味でモノ達によって見透かされた結果であるやうに思はれませぬか。

他人の評価額や市場価格が高いからと云って安心するのでなく、またそれが廉いからと云って粗雑に扱ふでもなく、自分とモノとの一対一の関係でその価値をと らへるといふことも、複雑で移ろひやすい憂き世を乗り切って行くのに必要なことなのではないか、と迷陽亭主人は考へるのでありますが……皆様に於かれまし ては如何に。





プラントン著 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波文庫 より 葉月十九日

しかしこゝでアデイマントスが口をさしはんさん で、次のやうに云った、

「ソクラテス、たしかに、さういった点については、あなたに反 論出来る者は誰れもゐないでせう。

けれども、あなたがいま云はれるやうなことを耳にするたびにい つも、聞く者たちの方は何となくかういふ感じを受けるのです。

つまり、かう考へるのです――――自分たちは問答をとりかはす ことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しづつわきへ逸らされて行って、議論の終はりになると、その<少しづ つ>が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを云ってゐるのに気づかされる。

そして、ちゃうど碁のあまり上手くない者が碁の名人の手にかゝ ると、最期には閉ぢ込められて、動きがとれなくなるとの同じやうに、自分たちもまた、碁は碁でも一寸違った、石のかはりに言葉を使ふこの碁によって、最期 には閉ぢ込められて、口を封じられてしまふ。

しかし、だからと云って、真実そのものは決 してそのとほりのものではないのだ、と
(以下略)」



言葉の有効性(2)  葉月十七日


迷陽亭客人「昨日のハナシの続きになりますが、文章も会話も含めた言葉といふものには意味内容、概念の伝達手段としての価値しかなく、心の伝達手段として は期待出来ないといふことでしたね」

迷陽亭主人「さうですね」

客「然し、考へてみたんですが意味内容や概念の伝達手段としても完全なものとは思へないのですが、どうでせう」

主「さうでせうね。
その意味に於いても甚だ不完全なものでせう」

客「でも社会は成り立ってゐますね」

主「それは言葉だけで世の中が成立してゐる訳ではないからでせう」

客「といふと?」

主「多分にフィーリング的なものに支へられて社会共同体が形成されてゐるといふことです」

客「具体的にはどういふことでせう」

主「たとへばある数学者がかう云ってをります。

数学といへども、教育の場では、実際にはかなりの部分を 以心伝心に頼ってゐることが知られる。
人間の頭はイメージを描けないと、論理だけでは行き詰っ てしまふやうに出来てゐるらしい。
数学の学習が難しいのは、その共通のイメージを描けるや うになるまでに、徒弟制度とまではいかないにしても、若い頃に於ける相当の訓練を要するからである。
そのために、外部の人間から見れば、数学は論理だけで出 来上がってゐるにもかかはらず、全く理解が出来ないといふ状態が起きるのである。

つまりは、社会共同体の構成員の皆々が言葉を厳密に解釈して共同生活を送ってゐるやうで、その実、非論理的なイメージを共有す ることでなんとか共同体を維持してゐるといふことなんでせう。
アタリマヘのことですが、要するに言葉そのものの交換だけでこの社会が動いてゐる訳ではないといふことですね」

客「なるホド、するとさういふ共通イメージのやうなものが介在せずに言葉だけで意思を伝達するのは六つかしいといふことですか」

主「さうでせうね。
更らにいへばもっと根本的な欠点がありまして」

客「それは?」

主「たとへばある問題に対して答へが三つあるとします。
A、B、Cと三つ。
そのウチのAだけについて答へたとします。
すると、聞いてる方は「あゝその答へはAなんだな、するとB、Cではないんだな」と思ってしまふ可能性がある」

客「だったら最初からA、B、C全て答へれァいゝんぢゃありませんか」

主「さうですけど、仮に答へ三つだけでなく、A〜Zマデあったとしたらその全てについていちいち言及するのは少々メンダウではありませんか。
物理的にシンドイでせう。
といふか無理です」

客「まァね」

主「然し、だからといって一部しか言及しないとすると、答へはその一部だけなんだらうと思はれてしまふ可能性がある」

客「ふ〜む」

主「更らに、昨時の例でAだけについて答へたとしても、Aといふ答へがまたA1、A2、A3に枝分かれしたりして、とてもとても全てを伝へることなぞ出来 ますまい」

客「確かに全ていふのは無理でせうね。
でも一部でも伝はればあとはだいたい伝はるものぢゃありませんか。
BとCについて言及がなかったから、BとCについては否定してゐるのだらうと必ずしも思はれないのでは?」

主「さう思はない人もゐるでせうが、でもBとCについて否定してゐるのだか肯定してゐるのだかは判らないまゝですよね。
だいたい予想はつくでせうが、所詮予想は予想であって、我田引水的に解釈することだって出来ますから」

客「実際そんな例があるんでせうかね」

主「ありますね、たとへば『論語』に「怪力乱神を語らず」といふ有名な一節がありますが、これなんかさうです」

客「怪力?」

主「さう、孔子様は「怪異と力業と不倫と神秘とは、口にされなかった」といふ意味の一節です。
これは単に、孔子様は怪異や神秘について言及されなかったよ、と云ってるに過ぎないのですが、後世の儒家が鬼神信仰を持つ墨子を批判する際に「孔子様は神 秘的なことについて何も仰言らなかったのだから、そんなもんは存在しないんだ」と主張するやうになったとふことがあります」

客「ホウ」

主「言及しなかっただけなのに、云ってないから否定したんだらうと解釈されてしまふことが十分あり得るんですね」

客「さうですか」

主「まァそんなこんなで「言葉の不完全性」について述べさせてもらひましたが、今述べたのはモチロン「言葉の不完全性」の一部に過ぎません。
だって、」

客「すべてを伝へることは不可能だから、ですよね」

主「さういふことです」



参考 足立恒雄著 『無限の果てに何があるか』光文社  金谷治訳注 『論語』 岩波文庫



言葉の有効性 葉 月十六日

迷陽亭客人「先日、古い知人から電話を貰ひまして」

 迷陽亭主 人「何ういふ用件で?」

 客「い や、なんだか相談ごとのやうな、単なる不平不満のやうな、そんなやうな話を一方的 にブチマケル感じの内容でして、私は私で逐次考へながらいちいち答へてゐたのですが……或るとき返事が全くなくなってしまったのです」

 主「ホ ウ」

 客「相手 はどうやら寝てしまったやうでして。
アチラから相談ごとのやうなハナシを持ちかけて来て、私がそれなりに言葉を選んで一生懸命に答へてゐたのにも拘はらず、相手は寝てしまふ…。
なんだか空しくなりましたね」

 主「空し くなったと?」

 客 「えェ、それァさうでせう、コッチは出来るだけ相手の問題解決に資するやうに色々と考 へて答へてゐるのに、寝てしまふのですからね」

 主「それ は貴郎の言葉が相手の心を捉へるのに失敗してしまったといふことではありません か?」

 客「或ひ はさういふことかも知れません。
尤(もっと)も私としては誠意ある回答を示したつもりですがね」

 主「い や、更らにいへば貴郎が言葉といふものゝ力を過信しすぎたタメにさういふことに なったのかも知れません。
早いハナシが言葉の空しさに直面したといふことなのではないでせうか」

 客「さう ですねェ、千言を費やすといふと大袈裟ですけど数時間に亘って色々と答へた結 果、相手が寝てしまったのだから、そもそも言葉といふ伝達手段そのものゝ有効性を疑ひたくもなりますね」

 主「とい ふことはやはり、言葉の有効性といふこと、すなはち言葉は必ず伝はるものであると信じてらっしゃったといふこ とでせう」

 客「そら さうでせうよ、言葉で伝へずしてどうやって一定の詳細な意味内容を伝達出来ます か」

 主「まァ ね」

 客「そも そも言葉といふもの、これは会話も文章も含みますが、その有効性が疑はしいやう では、社会そのものが成り立ちますまいよ」

主「さうですね」

客「さうでせう。
然しね、今回のやうなことがあると私としてはときに言葉といふものの空しさを感じない訳にはまゐりませんのです。
我々は一体全体、言葉といふものの有効性を何処マデ信じて良いのでせうか」

 主「有効 性といひますが、どのやうな有効性ですか?」

 客「どの やうな有効性って、それは先ホド申上げたやうに一定の意味内容の伝達手段として の有効性です」

 主「なる ホド、さういふ意味での有効性はまァあるのでせう。
それも厳密ではありませんでせうが、まァあるでせう。
さういふ意味での有効性がなければ貴郎の云ったやうに社会が成立しませんからね。
然し逆にいへば、言葉には一定の意味内容や概念を伝達する機能しかない、といふことになりませう。
従って、貴郎の友人が電話の向ふ側で寝てしまふのも仕方がないことになりますね」

 客「どう いふことでせう」

 主「言葉 に意味内容を伝達する機能があったとしても、所詮そこマデであって、コチラの心 の在り方を相手の心に届けるだけの機能マデ期待しては不可ないといふことです。
意味内容だけ延々と垂れ流されても、それが相手の心に届かなければ、それァ眠くもなるでせう。
貴郎の友人が寝てしまはれたのは、貴郎が言葉といふものに意味内容の伝達のみならず、心の伝達マデ期待したことに原因があるのでせう」

 客「なる ホドね。
ぢゃァ言葉といふものに心の伝達を期待した私は愚か者だといふことですね」

 主「い え、さうぢゃないです。
言葉に心の伝達といふ機能があると期待しては不可ないとは申しましたが、だからといって言葉が心を全く伝へないといふ訳でもないと思ひます」

 客「なん だかアイマイで判りにくいですねェ……。
ぢゃァ結局、言葉が心を伝へることはないけど、たまにあるといふことですね、下手な鉄砲も数打ちゃ当たると、さういふことですね」

 主「い や、さういふ問題ではないと思ひます。
一言で伝はる場合もあれば、一生かけて言葉を費やしても伝はらないこともありますから、要はタイミングといふか、
の問題でせうね」

 客「ですか」

 主「さう ですね、相手の心が欲してゐるときに、たまたまコチラが発した言葉がフィットす れば、忽(たちま)ちにしてコチラの心の在り方は相手の悟るところとなるでせう」

 客「そん なことあるんですかね」

 主「そん な珍しいことでもないでせう、誰れでも何度も経験があるのではありませんか。
以心伝心といふヤツです」

 客「以心 伝心?
それは言葉なくして心が伝はることでは?」

 主「い え、この場合も以心伝心です。
何故ならば、この場合に於いては言葉は一つのゼスチャアの機能しか持ち併はせてをりませんから」

 客「?」

 主「要す るに、心を伝へる手段としての言葉とはヒントの一つに過ぎないといふことです、 それは仕草であったり、或ひは言葉にならないものを見せたり聞かせたりするのと本質的に変はらないといふことです」

 客「フ ム」

 主「だか ら、貴郎は友人に電話で沢山ヒントを投げ掛けたことになります。
然し、それは伝はらなかったといふことになりませう。
所詮ヒントはヒントですからね、
が熟してゐなければ相手の心に届くことはないでせう」

 客「まァ 確かに、さういはれゝばそんな気もします。
かつて誰れかから聞いたことが、暫く経ってから突然理解出来るといふこともまゝありますからね」

 主「さう さう、それです。
或る幕内力士が負け続けてゐた。
それも何時も不甲斐ない取組みでやられてゐて、周囲からもモウ駄目なんぢゃないかくらゐに思はれてゐたさうです。
そんななか、その力士は大学に入学したんですが、大学で相撲部の顧問先生からアドバイスを受けたさうです。
「モウ少し前に出る相撲を取ったらどうでせう」と。
さういはれてその力士は「さうか」と悟るところがあって、気持ちを一新してみたらほんたうに強くなったといふハナシがありましたが、それも同じことでせ う」

 客「力士 に対して「前に出る相撲を取れ」なんちふのはアタリマヘ過ぎるアドバイスです ね」

 主「さう です、そんなことはモウ何百遍もいはれてゐたハズです。
然し、そのアドバイスは脳髄に届いてゐても心には届いてゐなかったといふことでせう。
そして或るタイミングで或る人からいはれた同じアドバイスが突然、心にストンと落ちる。
それが心を受け取る機縁が熟したといふことなんでせう」

 客「なる ホド」

 主「だか ら、言葉といふもの、特に言葉の積み重ねによる理屈や理論といふものに過大な期 待をしては不可ないといふことです。
どんなに理路整然とした理論であって、スヂがとほってゐて反論の余地がない正論であっても伝達のタイミングを外してをれば相手を心から納得させることは出 来ないでせう。
逆にいへばタイミングさへ合へば、高尚な理論は不要であるといふことです。
ですから、今回貴郎が何時間も掛けて色々と友人に対して語ったとのことでありますが、どうやらタイミングを逸してゐて全く友人の心には届かなかったやう で、ご苦労なことでありました。
まァ何時か判って呉れることもあるかも知れませんし、ないかも知れません」

 




頁の説明  平成甲申歳葉月十五日


10件一頁として、記事が新しくなるホドに上の数字が1,2,3と大きくなって行きます。
現在の頁は「3」で、常に最新記事がトップに来るやうにします。
貸日記頁でなくなったので色々とメンダウですが……なんとかマメに更新して行きたいと思ひます。




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